差別とは


 差別を語ることはあながちタブーにされがちです.非常にデリケートな問題だと.でも,それではいつまでたっても解決は見えません.タブー化して,ふたをしてしまうから余計に扱いづらい特別な問題になってしまうのだと思います.ということで,今回はあえて差別について語ってみたいと思います.

 差別とひとくちに言ってもいろいろな差別があると思います.人種差別,民族差別,女性差別,障害者差別,部落差別・・・障害者差別で言えば『五体不満足』なる本が話題になりました.正直僕はあの本には共感できなかったのですが,話題を提起するという点では意義があったと思います.

 いつも僕が気になるのは,ハンディキャップを持った人達に対する反応が過敏だということです.あまりに差別がタブー化されているため,それに直面したときに変に過剰に反応してしまうということです.例えばテレビなどで,ハンディキャップを持った人を取り上げるとする.その人がなにかを頑張ってるとする.絵を書いたり歌をうたったり・・・その時,ほとんどの司会者なりコメンテーターは「障害を持っているのにすごいですね.」とか,そういったような反応をしがちです.その人の努力を褒め称え,賞賛する.僕はそれにいっつも引っかかるのです.そういうコメントというのは,思いやりではなく同情,哀れみであると.それはある意味差別よりもひどいかもしれません.自分より不幸?な環境にある人を哀れむことはやさしさではない.単なる優越感です.あるいは安堵感かもしれない.

 ハンディキャップを持った人がなにかに秀でているとする.例えばその人が絵を描いているとする.障害を持っているのに上手な絵を描くからすごいのではない.単に,絵がうまいからすごいのです.上手な,人を感動させる絵を描くからすごいのです.その評価の基準にハンディキャップを持っているかいないかはまったく関係ないと思うのです.ただそれだけのことです.それ以上でもそれ以下でもない.いいものはいい,あかんものはあかん.それでいいと思うのです.差別が怖いということで,そういった人達のことをすべて肯定的に捉える必要はないと思うのです.そうやって特別扱いするからいつまでたっても一体化しないのです.いつまでもハンディキャップを持つ側と持たない側の溝が埋まらない.「大変ですねぇ」っていう言葉ほど残酷なこともない.本人はそう思ってないかもしれない.一生懸命生きていて,しあわせかもしれない.だらだら過ごしている人よりもよっぽど充実しているかもしれない.ハンディキャップを持つことイコールマイナスのイメージがあるからそういった言葉が出てくると思うのです.

 様々な差別を受けている人達.差別はまったくもって理不尽です.僕はそういった人達とも,他の人と同じようなスタンスで付き合いたい.好きなとこは好き.嫌いなとこは嫌い.認めるところは認める.だめなところはだめと言う.うわべだけはやさしい表情を見せて,心の中で差別や,哀れむようなことはしたくない.障害を持つ人とも本気でけんかしたい.話し合いたい.本気で好きになりたい.本気で嫌いになりたい.

 僕は,それが差別というものをなくす第1歩だと思っています.

 



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